「仙台砂漠」から「杜の都」になった歴史




「杜の都・仙台」という雅称は明治・大正時代からの歴史ある呼び名ですが、現代まで「杜の都」であり続けられているのは、第二次世界大戦後の環境活動による部分が大きいです。今回は、そんな歴史を少し紹介したいと思います。

「仙台砂漠」と呼ばれていた暗黒期

緑が多く住環境の良い都市という今のイメージからすると信じられないかもしれませんが、1970年代から1980年代にかけて「仙台砂漠」などと言われていた時期がありました。

これは、当時の自動車の冬用タイヤには「スパイクタイヤ」という物が使われていたことが原因です。今のようなスタッドレスタイヤやスノータイヤとは違い、スパイクタイヤには金属の鋲が打ち込まれており、凍結路でもガリガリ削って食いつくという代物です(この“スタッド”がなくなったからスタッドレスタイヤと言うんですね)。

スパイクタイヤは走破性は素晴らしいのですが、雪や氷のない場所を走ると当然アスファルトも削ってしまい、路面へのダメージが激しいだけでなく、粉塵による健康被害も出るという大きなデメリットがありました。

スパイクタイヤをみんな履く寒冷地だから、削られた路面の粉塵が舞い、まるで砂漠のようになってしまった……というのが「仙台砂漠」と呼ばれたいきさつです。

杜の都を蘇らせた2つの運動

スパイクタイヤの問題は寒冷地ならどこでも起きることでしたが、なんとかしようと立ち上がったのは当時の仙台の人々でした。「脱スパイクタイヤ運動」により、1986年には全国に先駆けて「宮城県スパイクタイヤ対策条例」が施行されました。

もちろん、ただ「スパイクタイヤを使うな」と言われても生活に必要不可欠な人たちは困ってしまいますから、スノータイヤでも安全に走行できる冬道環境を目指した除雪・融雪事業の強化や道路整備がセットで行われました。

脱スパイクタイヤ運動はその後、長野県や東北各県、北海道などに波及していき、1990年には「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が成立。全国でスパイクタイヤは原則禁止となりました(一部例外あり)。

さて、スパイクタイヤの問題が解決したことで少なくとも「砂漠」ではなくなりましたが、そもそも高度経済成長によって都市部の緑が急速に失われていったのも全国的な流れです。しかし、これについては1973年の「杜の都の環境をつくる条例」で先手が打たれており、緑地保全活動が功を奏して100万人規模の都市としては異例の緑が残る街になりました。

「杜の都」に愛着を持つ市民はやはり多いようで、平成の時代に入ってからも、青葉通りの地下駐輪場を作る際、ケヤキ並木が失われないように反対運動が起き、事業計画の変更により景観が守られました。美しい街を守る流れは脈々と受け継がれています。




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